2011年4月17日日曜日

轍を踏まぬように

下記の記述は「司馬遼太郎が語る日本」からの抜粋である。震災後、「政府や東京電力の対応」はそれと同根の、同じ性癖が現れていると考えるのは穿った見方であろうか?


ヨーロッパの戦場では、馬の代わりにトラックがあらわれ、そして重要な兵器として戦車が現れていました。そして軍艦は重油で動くようになっていました。
軍隊の輸送その他、すべて石油で動くようになっていました。大正初年の第一次世界大戦に参加しなかったため、日本の装備は非常に低い装備に落ちていたことがまず挙げられます。
軍隊が石油で動くということを考えれば、石油なんか新潟に少し、極端に言えば、数滴ほど出るぐらいでして、日本にはないに等しい。
石炭がかろうじてありましたが、石油が軍事を成立させる時代が来たなら、日本では海軍も陸軍も成立しない。
しかしそれでは、軍人たちにとって商売あがったりですよね。ですからいわない。こういう重大な自己の欠陥についてはいわない。国民は知りません。実際、日本の軍隊はリアリズムを失っていました。動けるはずもない。およそ装備は、前世紀の軍隊になってしまっている。
国民は知りません。
しかし、そのころから軍人は空威張りを始めました。リアリズムを失った軍人たちは、ファナティック(狂信的)になり、侵略的になっていった。
アジアの柔らかい部分、つまり抵抗のない部分に入っていこうじゃないかというような、野放図な考えが起こりまして、そのときに統帥権が浮上します。
日本の歴史にかつてないほどの権力集団が生み出されました。統帥権という変なものを中心として、これさえ持っていれば内閣も文句を言えない。
そのような力を持ち、そしてリアリズムのひとかけらも持たないグループがいろいろなことをし始めた。


国家戦略という錦の御旗のもとに、国民に一方的な情報提供し、国策(エネルギー政策)を推進する。
経済の拡大に伴い、原発は導入された。
電力需要の拡大に伴い、原発の能力は拡大され、設備・装置は拡充された。
電力関連企業は国策と共にその規模、影響力を拡大していった。
一方、それに伴い増大する危機に対する内外の備えは拡充されたのであろうか。
結果から類推すれば、十分だったとはいえない。
原発の能力が拡大すればそれに伴い、リスクは拡大する。
拡大するのは、被害の大きさだけではない。
同じ規模の被害を起こす要因が存在する範囲は拡大する。
想定範囲を拡大することが必要になる。
原発の規模の拡大と共に想定範囲は拡大しなければならない。
千年に一度の事故に対して想定外と切って捨てることはできないのである。
今回の「想定外」を繰り返す事故対応は無能のいいわけに聞こえる。
「神話をつくって、後生大事に祈祷を捧げ、被害の大きさに対応した退避計画も持たず、安全神話を作って、それを強化し、住民の不安を排除する」「規模の拡大に伴う不安の増大に対しては、今度は技術神話を作り出し、住民の不安を排除する」、こうしたことをしたのは誰だ。
その「つけ」が今回の問題の大きさにつながったのではないだろうか。


現在、エネルギー政策は、地球温暖化等の環境問題を解消する不可避な選択として推進されている。
エネルギー革命が社会の革新を支え、実現してきた。
そして社会のさらなる革新にわれわれは石化エネルギーに変えて核エネルギーを活用しようとしている。
核エネルギーと共存するためには、その力を制御できる社会へと革新しなければならない。
核エネルギーという新しい葡萄酒には、新しい革袋(社会制度、生活様式、人々の意識)が必要になる。
しかし、新しい革袋の製作には、時に、命がけの努力(使命感)が求められる。
安全第一で現状を回復することだけを望むことに慣れた者には、試練となる。


われわれは「今か、将来か」大きな選択を迫られている「転換期」にある。